3月11日の東日本大震災から100日が経ちました。
各所の方が力を尽くしてくださっています。
それでも甚大な被害の前では
いろいろなことがないない尽くしに思えることもあります。
避難所におけるビタミン不足、
震災による失業、
減らないがれきの山。
そして、被災地の思いと政治の思惑のアンバランス。
目の前で起こっていることとはかけ離れた
とんちんかんな国会の答弁に耐えられなくなり
ニュース番組を消したのも1度や2度ではありません。
いろいろな思いがありますが、
みんな力をあわせて必死でやってきたと思います。
そして間違いなく、各地から寄せられる善意や支援が、
物資と心、その両面でわたしたちを支えてくれました。
100日という時間。
この100日の間に、
会う人の言葉のなかにも、
リスナーさんのメッセージのなかにも、
"家もあるし、家族も無事で、申し訳ない"という気持をなんども
聴きました。私自身のなかにも、それはありました。
でもある人が、わたしに言ってくれました。
"今回の震災で傷つかなかったひと、ショックを受けなかった人はいない。
みんなが弔う気持をもつことが大事だと思うんです”
その方もたくさんの大事なひとを亡くされていました。
そのための日なんだと、
100日目を迎えたきょう、考えてすごしています。
そしていまだ行方不明の方が一日でも早く、ご家族の元へ
帰ることができますようにと祈ります。
そして100日目のきょう、ここに記しておこうと思うことがあります。
わたしたちラジオのスタッフも必死でしたが、
振り返ればもちろんたくさんの反省もあって日々過ごしています。
今後に生かすためにも、そしてこれからも被災地とともにありたいという
気持で番組をお届けすることを誓う意味でも、
文章で震災当初のこと、マイクに向かった当時の混乱や思いを書いておこうと思います。
自分の手帳を読み返すと、3月11日12日13日と
メモ書きがいろいろあります。起こったことを
書き留めておこうとしていたのを思い出しますが
その後、現実を知れば知るほど、何もかけなくなって
しまったことを手帳の空白が示しています。
金曜日はJ-SIDEの取材に費やすことが多いわたしは
あの日も出かける準備をしていました。
自宅1階のプリンターで資料を打ち出しているとき
突然の地震。揺れはまたたく間に大きくなり、
あわててプリンターのそばを離れ、隣のリビングへ
足を踏み入れたところで揺れはさらに大きいものに
なっていくように感じました。
その時間、母は出かけていて
リビングには祖母と父がいました。
父が祖母をかばうようにダイニングテーブルの下に入れ
わたしは数歩先のその場所にたどり着けずに頭の上に落ちて
くるものがないことを確認してテレビと棚を抑えながら立ったまま
揺れに耐えていました。
祖母はわたしのことが心配で
何度もテーブルから頭を出そうとしてしまいます。わたしの
『おばあちゃん!危ないから頭ださないでそこにいて!』と言う声と
『ひさちゃーん、ひさちゃーん』という祖母の声が何度も繰り返されていて
今思うと私は悲鳴もあげていたと思います。
父が制止しなければ祖母はきっとパニックのあまりテーブルの下から
飛び出してきたのではないかと思うと今でもぞっとします。
ダイニングボードのガラス戸が開いて
中からグラスや皿やマグカップや飾り物が次々と飛び出してきて
あっという間にリビングの一角がガラスの残骸でいっぱいになって
いきました。壁掛けの時計や絵がみるみるうちに床に
叩きつけられて、ダイニングの椅子が予測不能な方向に
動いていくのが見えました。
このまま家がつぶれるのではないか、という恐怖と戦いながら
時間はとても長く感じました。
やっと揺れがおさまりスリッパのまま外にでると
電線は大きくゆれていて、近所の犬たちが吠えているのが
聞こえていました。隣のブロック塀が崩れているぞーと父の声。
足がガクガク震えているのがわかり、
祖母と抱き合っているとまた大きな揺れ。
その余震は繰り返し繰り返しおこって
ついに私たちは家の中に入るのを断念して、車の中に避難することに
しました。近くから帰ってきた母と共に家族4人で
車の中に入ると、ラジオとテレビが大津波警報を伝えていました。
それからほどなくしてテレビが映し出したのは
津波が仙台空港の滑走路を飲み込む映像。
ただただ信じられませんでした。
不安に追い討ちをかけたのが季節はずれの雪。
そしてその後で空が一瞬明るくなったのを記憶しています。
夜になって、妹は車で30分ほどの距離を大渋滞の中、3時間かけて帰ってきました。
わたしの高校時代からの友人も避難してきて
その夜は2台の車にわかれて夜を明かしました。
ガソリンを節約するために、着込んで毛布にくるまっているのですが、
寒くてなんどかエンジンをかけて車内を温めました。
携帯ラジオが伝えるのは海岸に200人から300人の遺体があります、という
信じられない情報や緊迫した火災の情報。
停電で真っ暗になった空には星が綺麗で、ますますせつなくなります。
星の合間を、救援のヘリコプターが飛んでいくのを、祈るような気持で
窓から見ていました。長い長い夜でした。
どんなことが起こっているのか
被害の全貌を知ることになるまでには数日がかかることになろうとは。
J-SIDEのチームも、連絡がとれないまま、集まりました。
そして、その場にいるみんなの家族が無事であるのか、
聞けない雰囲気がそこにはあって、とにかく目の前にある情報を届けることだけに
集中しました。
初見で読む原稿ばかりで、メモを取る間もなく、下読みする時間など
もちろんない状態で生放送は続いていきました。
J-SIDEの場合は
一人が情報を伝えて一人がリスナーのみなさんから届けられた
安否確認メッセージを伝えるスタイルをとろう、ということになりましたが、
安否確認メッセージはご家族に呼びかける必死の文面がほとんどで
「一人でも情報がつながるように」と信じる気持だけで読んでいました。
メッセージを書いた方の顔が浮かぶようで、祈る気持いっぱいでみんな胸を詰まらせながら
読んでいたと思います。あるとき、安否確認が取れていないひとのなかに
高校時代の後輩の名前を見つけて震えました。
震災から4,5日後だったと思いますが、携帯ラジオの電池が残り少なく
なっていること、ずっとラジオの前にいられるわけでもないこと、
大きくその2つの理由から、「情報」と「安否確認」の時間を
あらかじめインフォメーションして放送をしてほしい、
という要望が寄せられました。すぐに、切り替えました。
現場のスタッフにとって貴重なご意見でした。
電気が復活したところから
充電ができるようになった携帯などからさまざまな情報が
届くようになり、しだいに「炊き出し情報」「ペットを預かります」
「赤ちゃんのミルクを配ります」「シャンプー無料支援」といった
細かな支援情報がみなさんから届き始めました。
本当に、ありがとうございました。あのときほど、
リスナーさんのお力、ラジオの力を感じたことはありません。
決して多くはない人数で放送を続けていましたが、
多くの情報に助けられ、わたしたち自身もはげまされました。
スタッフの食事の調達のためだけに一日費やす日々を過ごした
スタッフもいますし、若いスタッフが腹ペコで仕事しているのを見るのは
正直辛かったのですが、沿岸部では
比べ物にならないほどの状態であるのを日々感じていました。
まだまだ県内の被災地には復興の進み具合に開きがありますし、
ひとりひとりの時計の針の進み方もそれぞれです。
何をもって真の復興といえるのか、誰も経験したことのないことであるからこそ、
それは手探りであるともいえます。
とにかく大変な思いをしている地域の方とともにいたいというのが、
番組に関わる皆の思いです。
反省を生かすためにも、声を現状を、ずっと伝え続けていきます。
改めて、亡くなられた方のご冥福をお祈りすると共に
ご家族の皆様方に一日も早くこころおだやかな日が訪れますよう
お祈りいたします。
【紫陽花】
5年前のきょう天国へ旅立った、親友でいてくれたディレクター。
最後の1年彼女の時間を一番もらったのはいっしょに番組を
担当していたわたしでした。
どうして早く病気に気づけなかったのか、後悔ばかりでした。
今回の震災で、ディレクターの優しいご家族から
たくさん、心のこもった支援をいただき、
声のそっくりなお姉さんと話すと、ディレクターが
当時のようにわたしを励ましてくれているようでした。
思い出のなかにも、気遣いやセンス、
学ぶことがいっぱいなんです。
それが、5年という時間が教えてくれたことです。
足跡と生涯届けた優しさは、ずっと仲間みんなのなかにあります。