先月、はじめて東口のアンパンマンこどもミュージアムに
行きました。親友と息子くんのおでかけにお供させてもらいました。
はしゃぐちびっこたちがかわいいなあと思いながら、
ミュージアムで流れているアンパンマンのマーチを聴くと
震災後にいただいたリクエストが音に重なって思い出されて、
胸がいっぱいになりながら歩いていました。
夕方、アンパンマンの作者
やなせたかしさんの訃報に接しました。
まわりのスタッフからも漏れるため息。
以前担当していた『ハートフルライフ』という番組で、
やなせたかしさんのストーリーを紹介したことがあります。
やなせたかしさんは、
ご本人によると、実家は伊勢平氏の末裔で300年続く旧家で
あったそうですが、決して平穏とはいえない家庭環境で育ち、
子ども時代に大人たちの間で心を痛めるできごとも
あったそうです。
そしてやなせさんは、弟と自分を比較しては、
自分の不甲斐なさにコンプレックスを抱いていたようで、
「弟は母親似で器量良し、成績もよく、スポーツも万能で何でもできたのに、
自分は静かで、外見も中身も弟に劣っていたため、
すっかり消極的でコンプレックスだらけの暗い人間になってしまった」というお話を
明かされています。
大学卒業後は、田辺製薬の宣伝部へ入社しますが、1941年徴兵され、
日中戦争に出征。そこでは様々なつらい出来事がおこってしまいます。
可愛がっていた弟さんも戦争で亡くし、自分が経験した悲惨な戦争体験は、
今なお、やなせさんの作品の根底で大きなテーマとなっているそうです。
終戦後しばらく経って三越宣伝部のグラフィック・デザイナーとして
仕事をしながら副業として書き始めたのが漫画でした。
その後、専業漫画家となるものの、本業のほうではなかなか目が出ず、
舞台装置の製作や放送作家、作詞家などの仕事が多かったそうです。
そんな中50歳を過ぎて、ようやくやなせさんに転機が訪れます。
それが、子供達のヒーロー「アンパンマン」。
当初、主人公であるアンパンマンが、自分の顔をちぎって、
誰かに食べさせるシーンは物議をかもしたそうですが、
やなせさんはこのように語っています。
「自分はまったく傷つかないままで正義を行うことは非常に厳しい。
困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場が変わっても、
国が変わっても、『正しいこと』には変わりません。絶対的な正義なのです。」
そして『手のひらを太陽に』の歌詞。
「ぼくらはみんな生きている。生きているから悲しいんだ。」というフレーズ。
当時、なぜ悲しいのですか?とよく質問されたそうです。
今夜訃報を伝えるニュースでもインタビューが流れていました。
「生きているからこそ、悲しむことができる。生きているからには、
傷つくことも多いし、でもそれを乗りこえた時はうれしくなる。
悲しみとよろこびはウラとオモテ」
やなせさんは、そう語っていました。人生は長い、とも。
引退を考えていた矢先に、東日本大震災が起きたことから、
できることはしたいと引退を止まり、支援活動に力を注ぐとともに、
アンパンマンを描き続けられたそうです。
『生きていることが大切なんです。
今日まで生きてこられたなら、少しくらいつらくても明日もまた生きられる。
そうやっているうちに次が開けてくるのです。
今回の震災も永遠に続くことはありません。』
自分が幼稚園の頃、アンパンマンの絵本はいつも大人気で
貸し出し中が多かったことを覚えています。
息子くんがいたずら盛りだった頃、私の友達は
”わたしの言うことはきかないけど、
アンパンマンが言ってたよ、って言うと片付けるんだよね”と
言っていたことを思い出します。
震災後に番組に寄せられた
アンパンマンのマーチのリクエストをひとつひとつ思い出しています。
やなせさんがアンパンマンを通して送ったメッセージが
この世界にずっと大切にされることを信じています。