別名「深沼」とよばれている荒浜。
震災前は仙台市内で唯一の海水浴場でした。
私も、多くの友達も、最初の海水浴の
思い出はここにあると言っていいでしょう。
震災遺構として一般公開がはじまった
仙台市立荒浜小学校。
震災時には児童や先生方、地域のみなさんなど
320人が避難して、校舎の2階まで津波が押し寄せました。
校舎東側にあるベランダの鉄のフェンスは
水の勢いになぎ倒されるように曲がり
裏口の扉も二度と閉まらない状態になっています。
校舎の外周と1階と2階は津波の爪痕が随所に残され
被災直後の様子を伝える写真などが展示されています。
3階部分は公開されていませんが、
4階は展示物や写真、映像で当時のことを振り返るとともに、
これからの災害への備えについて学ぶことができる
コーナーもあります。
さらには、荒浜地区の歴史や文化、荒浜小学校の
思い出が紹介されていました。
この写真は、2014年に、震災のため5歳までしか
荒浜に住めなかった小学校3年生の子どもたちが
荒浜のことを知ろうと取り組んだ「あらはまカルタ」。
地域の人に思い出をきいたり、荒浜を探検して
できたのだそうです。
そしてこれは模型で荒浜の風景を復元するプロジェクトで
作られた模型。
津波前の街の姿を全国の建築学生が協力して
1/500の縮尺模型で復元しています。
その模型を地域の人々が囲み、語られる言葉を記録した
「記憶の旗」がたてられているものです。
私と同じ名前の「庄子さん」のところには
「静かなご夫婦が住んでいらっしゃった」という
旗が立てられていました。
見学する人たちの中にはGWということで、
地元に帰ってきたと思われる
卒業生たちの会話も聞こえてきました。
震災遺構について、県内では各地でさまざまな議論が
行われてきました。その場所で亡くなった方がいる場合、
ひとりの頭の中でさえ両方の想いがあり、
個人の意見としても答えがでません。
荒浜小学校では地域の方々の意見で、
体育館ではなく、屋上へ避難する訓練が行われていました。
"当日の校長先生の判断に救われたんだね"と映像の中で語る
町内会長さんの言葉が印象に残っています。
荒浜小学校は、階段の手すりや、水飲み場や
廊下や天井の柄、トイレの扉など、
自分の記憶の中にある自分の小学校とそっくりです。
それは一般的な、仙台市立の小学校のつくりなのだと
思います。
これから県内外からたくさんの方が訪れることになると
思いますが、きっと「小学校」という場所が
想像する力をより強く引き寄せてくれる気がします。